技術の進歩により一昔前に比べて肉体労働はずいぶんと楽になった。それに比べて精神的な疲れはどうだろうか。時は変わってもストレスが減っている感じは全然しない。
内面的な精神的ストレスと技術の進歩は関係ないようである。
ではどうしたら少しでも精神的なストレスを減らせるのだろうか。その事について少し考察してみようと思う。
気力や精神力が減退している状態は、体力以外のエネルギーが枯渇している状態とも言える。その理由の一つには、あまりにも多くのことを気にしすぎて生活している現代人の在り方がある。それによって気力が分散してしまい、1日の終わりには抜け殻みたいになっている。もし、日常生活で忖度もせず、嘘もつかず、安易な同調もせず、自身の単純な思いだけで生きることが出来るならば、精神のストレスはそれほど感じないのではないか。余計な外面を気にしすぎなのである。
仮に、保身のために、ある人に嘘をついたとしよう。するとその事のために、ずっとばれないか気にすることになり、ばれないための工作等にもエネルギーや時間が費やされることになる。どうしてこんな疲れることをするのだろうか。本音と建て前だけでも疲れるのに、嘘と現実という2重性においても自己の精神エネルギーば分散されてしまっている。ぶれぶれの生き方は自己の性格の多重化や精神の分裂にもつながりかねないし、トラウマになったり、考えとは裏腹に自己の矮小化という結果にもつながりかねない。
それに反して、事実を伝えるという行為や、真実を教えるという行為、他者のために何かをするという行為には、疲れるどころかエネルギーや力が宿る。また、言葉にも重みが増している。つまり師弟関係や特定の親しい関係などにおいて生じる事は、自分自身の分身の伝達と言える。
似たような言葉でも分身と分裂では大違いである。
また、同じ疲れでも心地よい疲れと虚しい疲れとは大違いである。
天真爛漫、梵我一如のように生きることが、理想とする心の広い人となり得る最低条件ではないだろうか。多様な価値観があるこのご時世でこそ、そのように生きてみるのもいいかもしれない。
時代の風潮という追い風を受けるか、風に飛ばされフラフラするかは、一なる自分軸の有る無しによるのだろう。